開脚前屈でおでこが床に付くまで。真向法のススメ。
柔軟体操が嫌いでした
「お前はおじいちゃんみたいに体が硬いな」
中学2年生の時、体育の先生に言われた言葉です。今でも鮮明に覚えています。
体育で実際に体を動かす時間は好きでしたが、柔軟体操は本当に嫌いでした。
自分が周りよりできないから。
そんな劣等感にとどめを刺したのがこの先生の言葉でした。
特別なスポーツをしていなければ、体が硬いことで不便を感じる人というのは多くないでしょう。
しかし、私は体の柔軟性が無いことで苦しめられることになりました。
それは坐禅です。
中学から高校にかけて、週に1回坐禅をした(させられた)のですが、この足の組み方は体の硬い人間にとっては拷問のようでした。
この6年間は片足だけのパターンでやっていたのですが、それでも結構な苦痛がありました。
これは半跏趺坐(はんかふざ)と言います。
大学の卒業後、本格的な修行道場に入ったのですが、そこで要求される足の組み方はこれです。
両足を組む。
…不可能だと思いました。
激痛に耐え、また時にはこっそりほどき、バレないように坐禅の時間をやり過ごしていました。
真向法との出会いと実践
そんなときに出会ったのが一つの体操でした。
それは真向法(まっこうほう)と言われるものです。
お世話になっている老師が一般の坐禅体験者向けに説明してくれたのがこの真向法というものでした。
「坐禅を組むのに良い」と言われ、今の自分に必要なものだ!と感じました。
正式には4つの体操があるのですが、私が教わったのは最初の3つ。
特に第1体操と第3体操を重点的に実践することに。
お風呂上がりなどに、繰り返してやってみました。
何度か自分でも試しているうちに、徐々に柔らかくなるのを実感していったのです。
本当に、徐々に、徐々にではありましたが。
トライは断続的に続き、そうしていると次第に結跏趺坐(坐禅で両足を組むやり方)も楽にできるようになってくることに気づいたのです。
修行から帰ってきても、真向法を続けることにしました。
もっとも、しばらくサボったりすることもありましたが、ふと思い立ってはやってみる、そしてまたサボる、また始めるというのを繰り返してきました。
おでこがつきました
始めてから約5年、この前ついにおでこがつくほどになりました。
あれ、今日はなんか行ける気がするな。
と頑張ってみたところ、
ちょこん
と床におでこに触れたのです。
感動的でした。
もっと真面目にやっていればこんなにかかることもなかったのでしょうが、それでもなんとか達成できたこと
だから何、と言われてしまうけれど、めちゃくちゃ体が硬くとも、繰り返しやっていけば体を柔らかくしていくことはできる!
自分の小さな達成に拍手喝采。
大げさかもしれませんが、「おじいちゃんのように硬い」と言われた自分の体がここまで柔らかくなったのは本当に感動ものです。
モチベーションの維持のために
「おじいちゃんのような体の硬さ」だった私でもここまでできたのですから、同じように悩んでいる人には、諦めずに柔軟体操(この真向法は特におすすめです)を続けて欲しいな、と思います。
ただ、単純に体を柔らかくしようと思っても、継続するのはなかなか難しいものです。柔軟性はすぐにはつきづらいですし、「柔らかくなった!」と思った次の日にはまた硬くなることもしばしば。心が折れかかることもあります。
そうして気づいたらまた柔軟体操をやめてしまうこともしばしば。
私は体の柔軟性を確認するようなアクティビティーを取り入れられるとモチベーションの維持に良いのではないかと思います。
私は坐禅をやっていますが、たまにヨガもやります(月に1回ぐらいのペース)。この中でやるアーサナ(ポーズ)でも、真向法の効果を実感しています。
もちろんこれ以外でも良いのですが、体(特に下半身)の柔軟性が活きるような活動を取り入れてみましょう。
何より、「あ、体硬くなったかもしれない」と感じるきっかけになりますからね。股関節の硬さや、内腿の筋肉のこわばりとかは普段の日常生活だけ送っていたり、普通のスポーツだったりジョギングだけをやっていても気がつかないものです。
とは言っても私もまだまだおでこが床についただけ。
次は胸がつくように頑張っていきたいと思います。
目指せ開脚ぺったん!
【良い仲間に恵まれるために】『君に友だちはいらない』
著者について
『君に友だちはいらない』の著者である瀧本哲史さんは『武器としての交渉思考』『武器としての決断思考』『僕は君たちに武器を配りたい』などの著作でも知られています。東大法学部からマッキンゼーに就職し、退職後は京大の客員准教授も務めましたが、昨年(2019年)の8月に亡くなられました。
これから残されるはずだった数々の著作や講演が失われてしまったことは本当に残念です。この記事では『君に友だちはいらない』を読み、私なりに考えさせられたことや、気になったところのまとめを残しておこうと思います。
人間のコモディティ化
画一的な商品を生み出してきた社会の中で、人間もまた商品的な扱いを受けています。それは履歴書を記入していけば自ずと見えてきてしまうものです。資格は何があるのか。どこの大学を出ているのか。修士か、博士か。他の人間に比べて際立った経験をしてきているのか。
ここには別に自分らしさを表現する余地はありません。企業が求める能力に基づき、自分の所有している資格、スキル、学歴を表明する。そうすることで、人間同士が同一尺度で評価することが可能になっていきます。
そしてそのように評価された存在は、ある種の商品として扱われる。デザイナーが企業から無理難題を押し付けられるという現象が、まさにこれを表しているのではないでしょうか。
仕事を依頼する相手は、もはや人間ではなく、特定の依頼に応じるというサービスの提供者、もはや商品的存在になっています。このような状況を瀧本さんはコモディティ化と呼んでいるのです。
私たちは、コモディティ化から逃れ、人間としてより豊かに、幸福に生きるためにどうすればいいのだろうか。その答えこそが、「仲間」をつくることだ(p6)
このコモディティ化の流れから幸福になるためにするのが「仲間」を作ることだといいます。この本のタイトルには「友達はいらない」と出ていますが、ここから連想される「友達不要論」はほぼ語られません。全体としては「理想的な仲間、チームとは何か」が論じられていきます。
友達不要論について考えたい人は菅野仁さんの『友だち幻想』(ちくまプリマー新書)を読んだ方が良いでしょう。
仲間は目的のために集まる存在
この仲間というのは決してズルズルと続く関係のものではありません。瀧本さんは友だちについてはあまり深く言及はしていませんが、仲間のあり方については次のように述べています。
私は、仲間というのは当初の目的を達成し、互いに必要とする時期が終われば、離れるのが自然だと思っている。いつまあでもずるずると仲間意識をひきずり、「仲良しごっこ」を続ける関係には、意味がないのだ」(p94)
この一節が登場するのは「本物の海賊の行動原理」という節で、その前は「『ワンピース』ルフィの幻想」という節が置かれています。ルフィの仲間観について真面目に論じているところが面白く、内田樹の『ワンピース』論に対しても批判を加えていました。その主な趣旨は「無条件に運命を共にするのが仲間ではなく、そもそも仲間は特定の目的のために集まった人々」というものです。
倫理性の無い仲間は危険。
ビジネス的な観点から考えると、「金、結果が正義」といった形で考えられているのではないかと思っていましたが、それは良い意味で裏切られました。チーム作りの上では、「倫理性」が非常に重要なのだといいます。ここで言及されている「ゴキブリ理論」もまた興味深いものでした。
ゴキブリが一匹出たとしたら、その一匹がたまたまいたのではなく、見えないところに何匹もいる。それと同じように一つの嘘などが露見した時、それはたまたまついてしまった嘘ではなく、常習的に行っている場合があるというのがこの「ゴキブリ理論」のようです。これは瀧本さんのオリジナルではないようですね。
誠実さがなくてはチームが円滑に回っていきません。それは当たり前のことなのですが、大人になっていくにつれて薄れてしまう観念でもあります。しかし、倫理観が周囲に迷惑をかけるレベルにまで低下した仲間がいると、それは全体のパフォーマンスを下げることにつながってしまいます。
ただ、倫理性をチームの中で養っていくのは実際には難しいのではないでしょうか。一定レベル以下の倫理観しか持っていないメンバーがいたら、勇気を出して切り捨てる覚悟も必要なのことかもしれません。
仲間に恵まれる自分になる
倫理性意外にも「どのような仲間を集めるべきか」についての記述はとても多くなされていて、気になる方には本書を実際に手に取っていただきたいのですが、問題はどうやら仲間だけではないようです。
どのような人を引き寄せるか、どんな人が自分に対して関心を抱くかは、その人自身の人生の反映であり、「まわりにロクなやつがいない」というのは、鏡に向かって悪口を言うのに等しい。っ自分の行動、態度を変えれば、まわりに集まってくる人も変わってくる。自分の置かれている環境は、少なからず自分が過去にしてきた意思決定の反映なのだ(p171)
そこまで強調されていない一文ではあったが、これこそが真理を言い得ているように思います。自分の周囲に集まる人というのは多かれ少なかれ何かしら自分と共通点を持った人です。自分のネガティブな気質と共通した部分を持っている人が集まってくる場合も少なくはないでしょう。
生産性を伴わずにズルズルと続くような関係を心地よく思っているのなら、やはりそうした人が自分の周りに集まってきます。また倫理観が希薄な行動をしていればそれを許容するような、もしくは実際に同じような行動をとっている人間が集まってくるのではないでしょうか。
良い仲間を集め、良いチームを運営していくことは大事なのでしょうが、その前提として良い仲間に恵まれるには、自分が良い存在であろうとしなくてはいけない、ということになってきます。
ただ、どんな仲間も大事にしていきたいと思うのが人情ではあります。生産性がないからもう会わない、というような関わりはやはり悲しいものだと思う人も少なくないでしょう。ただあ、いわゆる友だちを瀧本さんも否定はしていなくて、友だち的な仲間(仕事のチーム)は要らないということを言っています。
おわりに
物語の主人公は大抵良い仲間に恵まれます。それは単なる偶然ではなくて、主人公の人間としての質が、出会いに影響を与えているのでしょう。
「仲間に恵まれたい」
そう思う前に、まずは自分の生き方の方向を見直してみる必要があるのかもしれません。良き縁はどこかからランダムにやってくるものではなくて、日々の自分が作り出していくものなのです。
【禅語】「自灯明 法灯明」は単に「自分を信じる」ことじゃない。
自灯明 法灯明
「自灯明 法灯明」という言葉をご存知でしょうか。禅語として紹介されることもあるのですが、古くはお釈迦様が亡くなる少し前に弟子であり従兄弟のアーナンダに伝えた言葉だとされています。
この言葉の意味は、自分を灯明(導き)として、法(お釈迦様の教え)を灯明(導き)とするということです。暗い道を歩いている時に灯されるのが灯明ですね。暗い道を歩いている中、夜道を照らしてくれるのが自分と法(お釈迦様の教え)だというのです。
法灯明
法灯明はとても分かりやすいですね。お釈迦様の教えを導きとするということです。29歳に出家して王族としての地位を捨て出家者の道に入り、35歳に悟りを開いたお釈迦様は80歳で亡くなるまで約45年間にわたって教えを続けていました。
お釈迦様が亡くなる前に弟子のアーナンダは「これからは何を頼りにすれば良いのでしょうか」とお釈迦様に聞いたところ、「これまで多くの教えを説いてきて、お前はそれを聞いているのだからそれを頼りにしなさい」ということです。
自灯明
さて、問題はもう一つの自灯明です。これは素朴に「自分に自信を持て」ですとか、「自分の考えを大事に」ということが言われています。ただ、このように安直に受け取ってしまうと、とんでもない取り違いを起こしてしまいかねません。
そもそも特定の分野についての基礎的な学習すら不十分な人は、自分の考えを大事にするべきではないですよね。そこの分野をある程度学び、そこを土台として実験をデザインしたり、思考を発展させていくわけです。そうした基礎的なトレーニングを経ていない状態で「自分に自信を持て」など言われても、それは空虚な妄想を抱かせることにしかなりません。
「自灯明 法灯明」の出典
この自灯明法灯明という言葉は、そもそも『遊行経』や『涅槃経』という経典に登場してくる言葉です。これらは漢訳仏典(漢文で書かれた仏教経典)なのですが、一方でパーリ語(古代インドの口語)で書かれたものがあります。
『マハー・パリニッバーナ=スッタンタ』という経典なのですが、これは渡辺照宏さんが『涅槃への道 ブッダの入滅』(ちくま学芸文庫)の中で詳細に検討されています。
ここでは「自灯明」に相当する部分として次のように出てきます。
アーナンダよ、それゆえに、自分自身を燈明とし、自分自身をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない(p85)
自分自身を拠り所にして、他のものには頼らない。他の人の意見に左右されたりしない、ということですよね。なんだ、やっぱり自分の考えを大事にして良いんだ、と思ってしまいますが、これにはちゃんと続きがあります。
アーナンダよ、身について身を観察し、熱心に、意識的に、思慮して、世の欲望と嫌悪とをおさえて行動する。感受について、心について、物事(諸法)についても同様である。このようにすれば、アーナンダよ、自分自身を燈明とし、自分自身をよりどころとし、他のものにたよらないのである(p85)
「身について身を観察する」というのは仏典にも登場してきますが、瞑想のことです。身・感受・心・物事(諸法)とを合わせて四念処(しねんじょ)とも呼びます。
「自灯明」では感覚に振り回されない
つまり、自分自身を灯明として良い存在になるのは条件付きだということです。欲望やら嫌悪やらといったものに振り回されて生きている状態の自分というのは灯明にはなりません。
道元禅師という、鎌倉時代に活躍した禅僧がいるのですが、「感覚の奴隷」という旨の表現をしているのですが、通常の状態での生活はこの感覚(好き・嫌い・無関心など)の奴隷になっている、ということです。
この自灯明という言葉を文脈から切り離して一般化させ、「自分の考えやら感覚を大事にしましょう」というのはこの「感覚の奴隷」であることを推奨することになりかねません。言葉は一緒でも、釈迦様の言葉を伝えようとしていることの正反対のものになってしまいます。
自灯明の前提になっているのは、自分の感覚に振り回されないようになるためのプラクティス(練習・実習・実践)です。これをないがしろにした状態でいくら自分を大事にと言っても、それは自分のエゴを増長させることにしかなりません。
現代のプラクティスは?
ただ、現代の日本仏教の中ではこの四念処の瞑想は積極的には取り入れられてはいません。しかし、禅宗であれば坐禅、浄土系であれば念仏、また宗派に関係のないところでは写経といったものがその役割を担っていると思います。
もちろん坐禅も念仏も積極的に「感覚の奴隷」から離れることを宣伝している訳ではありませんが、実際そのような心が練られてくるものであることは、多くの実践者が感じていることでないでしょうか。
そもそもこの教えが伝えられたアーナンダという弟子は、お釈迦様の側にいつもいて、弟子の中でも最も多くの教えを聞き暗記していた人物です。このような弟子に対してだからこそ「自灯明」という言葉を示されました。
この段階でアーナンダは悟ってはいませんでしたが、長い間お釈迦様の側にいて実践を積み重ねてきた人だからこそ、「自分を頼りにしなさい」と伝えたのです。もしかしたら、アーナンダが自分よりも劣っている他人の話を受け入れてしまうかもしれない、とお釈迦様が危惧したのかもしれませんね。
まずは法灯明
さて、ではみんな瞑想やら坐禅やらをやりましょう、というとあまりにも門戸が狭い言葉のようにも感じます。私はより一層一般化させる言葉としては「法灯明」が良いと思います。
教えを導き手とするということです。もちろん仏教徒であればお釈迦様や各宗派の宗祖の教え、老師ということになるのですが、より一般的には尊敬する先生や先輩の教え、というものにもなっていくかと思います。もちろんテキストベースでも良い部分もあるのですが、できれば現実に出会った人の方が良いと思います。
先ほど言及した道元禅師の言葉に、「正しい師匠に会わなければ、学んでも意味がない」というものがあります。
未成熟な自分の了見でテキストの言葉を解釈したところで、そこには限界があります。実際にその教えがどのように実践されているのか。そこにも目を向けていかなくてはなりません。
尊敬する人、目標とすべき人からの学び、教えを抜きにした自分をよすがにしていては、何の成長も見込めません。いつか自分を灯明とするために、まずは法を求め灯明をとなし、実践していく必要があるのだと思います。
ライデン買ったらスマホのアラームで起きるようになった。
「朝早く起きよう!」
そう思って大音量の目覚まし時計を買う。
でも同居している人から文句を言われる。
ということはありませんか?
この記事では私が実践している(することになってしまった)解決策について書いていきます。
ライデン購入
暑さが極まる前、朝起きられない日が続いていました。
スマホのアラームではなかなか起きられない日が続いていました。
このままではいけない。そう思って買ったのが目覚まし時計のライデンです。
ライデンの特徴はなんといってもその音のデカさです。
本体の両脇についたベルが尋常ではない音を掻き立て、深い眠りに落ちていても一気に現実に「おはよう」できます。
音の大きさは文章で表現するのは難しいのですが、「ジャルリ”リ”リ”」のような感じです。
これを使えば飛び跳ねるように起きるんですね。
こんな具合に。
https://moretsu.exblog.jp/m2009-05-01/
引用元ページ。漫画家のヤマザキマリさんという人のサイトらしいです。
音が大きすぎる
ただ、問題が発生しました。それは家族からクレームが来ることです。親が起きるのが大体7時以降。僕が起きる(起きたい)のは5時。親にしてみれば普段起きる時間よりも2時間も早く音が鳴ることになります。
親にしてみれば、これはたまりません。
鳴って即止めるぐらいならば良いかもしれませんが、大体失敗します。
そもそも即止めないように、目覚まし時計は少し離して置いておくものです。枕元にあったら反射で止めてそれでおしまいですから。
どんなに速くリアクションしてスイッチを止めても、1.5〜2秒ぐらいの誤差が生まれてしまいます。それぐらいの時間があれば、近くの部屋で寝ている親は起きてしまいます。
「うるさい」
そう言われるのも仕方がありません。
ちゃんと段階設定のできるやつを買っておけば良かった。
4000円ぐらいするライデンは段階設定できるものもあって、小さめの音に設定すると「チャリリリリ」ぐらい、割と可愛らしい音を出せるのです。ただ、私が買った2000円ぐらいのモデルだとゼロかMAXかしか設定できません。
ライデンより早く起きる
この問題の解決策は一つしかありません。
そう、それは「ライデンよりも早く起きる」ことです。
ライデンのタイマーよりも少し前にスマホのアラームを設定するのです。
「いや、使うのをやめれば良いじゃないか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。
「鳴ったら周り(親)に迷惑がかかる」
そう思うからこそ、早く起きることができるようになるのです。
これ、思っていたより効果がありました。
2つの メリット
これのメリットは、何と言っても寝起きの良さです。
ライデンは音が大きすぎるので、起きた時の衝撃が強いです。
正直目覚めは良くありません。叩き起こされた時のような感覚になります。
スマホのアラームはライデンに比べれば鳥のさえずりのようなものです。
「おや、朝か」
ぐらいの気持ちで起きることができます。
そして、しっかりと起きなければなりません。
なぜならライデンのスイッチを切る、という大事な朝一の仕事があるのですから。
これがメリットの二つ目です。
朝早速一つのタスクをクリアできていることになります。
「ライデンのスイッチを切る」にチェックマークが付けられます。
しかも早起きできているということは、もう一つタスクをクリアできています。
つまり、これをやることで一石二鳥というわけです(マッチポンプな感じもありますが)。
スマホのアラームも、以前では単純に「もう少し寝ていたい」と思って、または無意識の内に切ってしまっていたかもしれませんが、これではそれは通じません。
この欲望に従えば、周りに迷惑がかかります。
親ぐらいだったらどうでも良いと思う人もいるかもしれませんが、これがパートナーだったり、シェアハウスの同居人だったらあなたの評価が下がります。
「朝一で迷惑をかけてくる奴」という認識になってしまうかもしれません。
それは嫌ですよね。
小さなことから習慣化
ライデンをセットする。スマホでアラームをセットする。ライデンより早く起きて、そのスイッチを切る。
「それで寝たら意味ないじゃん」
そう思う人もいるかもしれません。
でも、別にそれで良いと思います。
だって、早起きして一つの行動を取ることができているのですから。
これも立派な朝活だと思うんですよね。
他にも朝起きて「勉強したい」「ヨガしたい」「筋トレしたい」「走りたい」
色々な目標を立てる人もいるかもしれませんが、それはあまりうまくいきません。
でも、まずは「早起きして即寝る」という生活から、「早起きしてライデンを止めてまた寝る」のは簡単に習慣化できますよね。
そう、これが一番のメリットです。
朝型人間になるということは、「朝早く起きる」+「何かをする」ということをセットにしなくてはなりません。
ただでさえ「朝早く起きる」ことのハードルが高いのに、「何かをする」の内容も意識高い系にしてしまっては、一層達成が難しくなります。
自分を一気に変えられるなら、それが一番です。ただ、それをやってもなかなか長続きしません。
目標を高く設定すると、段々苦しくなってしまいますよね。
自分を変えたい。そう思っているのなら、人生を180度変えるのではなく、「まずは5度ぐらい変えてみよう」ぐらいの気持ちでやっていくのが良いのではないでしょうか。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
朝起きるのはなかなかキツイですが、一緒に頑張っていきましょう!
ちなみに、習慣づくりにおいてはこの本がオススメです。
「皆に迷惑」の「皆」って誰だろう。青森のビラ問題から考えた。
青森中傷ビラ問題
青森に帰省した男性への中傷ビラ問題がありましたね。もう結構前のことのように思われますが、被害に遭った男性は、無事に帰省を終えられたのでしょうか。また、ご実家のこれからの地域における関わりは大丈夫なのでしょうか。心配は尽きません。
個人的にはこのビラを配る人の気持ちが分からなくもないのですが(ちなみに東京人でです)、気になったのは「皆に迷惑」という表現です。
皆っていうのはどの程度の人のことを言うのでしょうか。
「皆」と言いながら結局は自分だけのことだったりする、というのも良くあることです。
このような「大きな主語」を使うことについての問題点を考えていきたいと思います。
ネットでの反応は色々。
ネットでも色々な考えがあるようです。
検査時は、感染して無くても、10日後に帰省してるなら、感染して無いとは言え無いよね。
— Bomberman (@Bomberman1031) 2020年8月9日
帰省したい人の気持ちも分かるし、書いた人の気持ちも分かる。
ただ、感染拡大時に帰省したら、大なり小なり言われたり、思われたりするのは当たり前。騒ぎ過ぎ
青森市のビラの件、これだから田舎は〜とかまた言われそう😠
— めい (@mei_sleepy) 2020年8月9日
筆跡出ちゃってるから近所の人は分かっちゃいそうだな、、
ちなみに知事は暖かく迎え入れてくださいって言ってたはずだけど、ビラの主はニュース見てないのかな。
青森に帰省して中傷ビラ貼られた人、定期的に検査受けてたって
— 気弱な鬼畜 ティブロン🦈 (@kumasanyoiko) 2020年8月9日
テレビで言ってたけどそれこそ個人対個人で話してないと分からない事だよね。
テレビで取り上げられて検査受けてたのを知る=貼り紙しなきゃ知りようもない事。
ビラを置いた人間に対して批判的なものもあれば、擁護するようなあものがあったり。また地域社会の独特な体質について問題視するようなものもありました。
ビラの主の気持ちも分からなくもない。
個人的に共感したのは、3番目に引用した「個人個人で話してないと分からない」ということです。どれだけPCR検査を受けようと、普段関わりのない人から見れば、どういった生活を送っているのか、どれだけ気をつけているのか、どういった事情で帰ってきたのかということは分かりません。分かっていることは「東京から来た」ということだけです。
危険だ!
そう思う気持ちも分かります。実際に一番コロナの感染者数(正確には判明した人数)が最も多い県から来るのですから。それは仕方がないことだと思います。
もしかしたら、このビラの主の周り、もしくはご本人がお年寄りだったり、基礎疾患をお持ちの大切な人がいるのかもしれません。万が一のことがあったら大変だ。そう思うことはある意味では自然なことです。
ビラのせいで、片や萎縮し、片やビラ犯人探しの標的にされる。お互いに苦い思いをしてしまうわけですが、帰省された男性が外に出ることに対しての抑止力的な意味合いはあったのかもしれません。
でも、「皆」はヘン。
ただ、この男性自身が「皆に迷惑がかかる」という言葉を使っていることだけは、「仕方がない」とは思えません。
日本人の特徴なのかは分かりませんが、何かを主張する時、正しいことを主張する、もしくは相手の悪い部分を指摘する時に「大きな主語」を使いがちです。
「日本人なら」「常識のある人は」「普通の人だったら」
ここで使われている「皆に迷惑」というのもそうですね。
実際、自分にリスクがあるのなら「自分が高齢なので心配」と書けば良いし、親が心配なのなら「親が糖尿病持ちで、しかも高齢だからどうか出歩かないで」と、しっかり書けば良いのに、と思います。
こうした「皆に迷惑」という言葉を使うと、単なる主義主張にしか聞こえず、何の実利も伴わず、罵声を浴びせられた人と、罵声を浴びせた人が発生するだけです。
「私」を使おう。
もし仮に。
仮にですが、本当に身近な人やご自身のことが心配であるのなら、しっかりそのように明記すべきです。「私」の問題なのだと言うべきです。
これは今回の問題に限らず、日本にはびこっている病理のようにも思われます。この「日本」というのも「大きな主語」で申し訳ないのですが…。
ただ、ついつい「普通そんなことしないでしょ」「常識的に考えてよ」といった、「【私の考え】=【常識・普通・皆の思い】」といった形で伝えてしまうことは少なくありません。
こうした単に断罪するような言葉を使っても相手は動きません。それを見て、断罪する側も一層憤りを強めてしまいます。
そうではなくて、「私はこうしてほしい」と言うことで、相手に対して一人の人間として向き合うことができるようになっていくのではないでしょうか。
断罪から関わりへ。
「皆」「普通の人」「常識のある人」、そういった「大きな主語」を使うことは一方的に責め立てる上ではラクな表現です。使う側もキモチイイ気持ちになるでしょう。ただ、それは何も生み出していないということについても考えなくてはなりません。
「大きな主語」から「私」へ。
断罪から関わりへと、シフトチェンジすることがこの状況をより豊かに生きていくことにつながっていくのではないでしょうか。
良い姿勢は「背筋を伸ばす」だけでは足りない。
「背筋を伸ばし、良い姿勢でいよう」そう思ったことはありませんか?
今回の記事では私が良い姿勢を保つ上での悩みと、それを解決する上で参考になっている本について紹介します。
良い姿勢のメリット・デメリット
良い姿勢のメリット
良い姿勢のメリットとは何でしょうか。
「良い姿勢 メリット」とググってみると「日本姿勢改善協会」というところがヒットしました。
http://www.sisei-kaizen.com/posture/
ここで書かれているメリットは以下のものになっています。
・血液の循環が良くなるので、肩こりや腰痛、不眠などの予防や解消につながる。
・基礎代謝が良くなるので脂肪燃焼効果が上がり、太りにくいカラダになる。
・呼吸が深くなることで腸内環境が整い、健康につながる。
・便秘改善になる。
・スポーツにおけるパフォーマンスが向上し、さらにスポーツ障害の予防にもなる。
・正しい姿勢で呼吸をすると腹横筋が締まってくるため、ウエストが引き締まる。
・美肌になる。
・女性はより美しく、男性はよりたくましく、外見的な変化も生まれる。
良いことづくめです。要するに、「元気になる」ということですね。
悪い姿勢のデメリット
反対にデメリットはこんな感じです。
・内臓が圧迫され、心肺機能や消化機能が低下するなどのカラダの不調を引き起こす。
・血行不良が起こることで代謝が悪くなり、脂肪燃焼効果も下がり、太りやすい体質になる。
・肌の荒れ、くすみ、シミ、たるみ、二重アゴなどの原因にもなる。
・肩こりや腰痛、頭痛などの痛みを引き起こす。
・集中力が低下する。
・不眠症を引き起こす。
・呼吸が浅くなることから自律神経が乱れ、精神的不安の原因にもなる。
これは要するに、「調子が悪くなる」ということですよね。
良い姿勢にしているのに「調子が悪い」
私は基本的に「姿勢良いね」と言われる方(まあ坊さんだし)なのですが、その一方で悩みがありました。それは「良い姿勢をすると体が緊張する」ということです。
背筋を伸ばしていると、どうも体が硬くなります。肩が凝ります。なぜか側頭部まで硬くなってきます。
あまりこの「姿勢改善協会」で紹介されているメリットの部分は実感することはなく(もしかしたら無意識に享受しているのかもしれませんが)、むしろデメリットの方が強く感じられました。「元気になる」どころか、「調子が悪くなる」方が実感として多いのです。
現にマッサージ好きな先輩から首を触られた時に「凝ってるねー!」と嬉々とした表情で言われ、姿勢を良くするのは損だと思うほどでした。
これはおかしい。そう思いながら色々と試行錯誤していったのですが、気にすればするほど凝りは深まるようでした。
本の紹介
そうして、現状を打開するのにとても参考になる本と出会いました。JIDAIさんの『筋力を超えた「張力」で動く!』です。
JIDAIさんはアートマイムという身体表現アートのパフォーマーのようです。マイムというと、パントマイムをイメージしますが、それよりも深い身体性、人間の内面の表現を目指しているようです。
アートマイムについては以下サイトに詳しく載っています。
http://jidai.mond.jp/artmime/diary/diary.php?id=306649
上に行き、かつ下に行く
さて、私がこの本で一番参考になったのは第2章「『立つとは浮きつつ垂れること』」でした(全体の目次は最下部に載せておきますね)。私の悩みは主に座っている時の姿勢で、立つことではなかったのですが、次の言葉が衝撃的でした。
立つという状態は止まっている状態ではありません。といって、それは常にバランスを取り続けているという意味ではなく、エネルギーが上方向と下方向へと常に流れ続けているという意味です(p30)
何のことやら、となってしまうような文章ですよね。
JIDAIさんはエネルギーを「気」と似たような意味で使っているようですが、私は「体の伸びを感じる方向」と受け取りました。この伸びは筋肉の伸びという物理的な要素もあるかと思いますが、伸びている感覚という、精神的な面も併せ持つ概念だと受け取りました。
他にも色々と参考になるものがあるのですが、特にここで引用した、「エネルギーが上方向と下方向へと常に流れ続けているという意味」というところが本当に重要なところだと思います。
「あ、自分は上方向ばかりに行っていたな」と気づいたのです。
どういうことかというと、「良い姿勢にする」と考える時、普通は背筋を伸ばそうとしますよね。そうすると上方向ばかりに行ってしまいます。でもいつまでも上方向に行くわけではありません。身体的な制約がありますからね。背筋がどこまでも伸びていくというのはあり得ないことです。
上に行っていると同時に下にも行っている。
背筋を伸ばすと、お尻や足は下の方に向かっている。
不思議なものですが、これを意識しただけで座っている姿勢が本当に楽になったのです。もちろん背もたれも使っていません。
ちなみにJIDAIさんは目や眉あたりを境に上と下方向の意識を持つようにする「くらげ立ち」を勧めています。あちこちで上下の方向を意識するよりは、どこかのラインで上下を意識すると良いということのようです。
確かに目や眉のあたりのラインで上下の方向を感じるのも良いですが、個人的にはみぞおちの上、胸骨らへんを意識すると良いなと思いました。あくまでも主観ですが。
これを実践しているとそれまで良い姿勢を保つことで感じていた「調子の悪さ」が減り、「元気になる」ということが少し感じられるようになってきました。
上に伸びると一緒に、下に行く。
もし姿勢を良くすることで余計な体のこわばりを感じてしまっている人は、ぜひ試してみてはいかがでしょうか。
この本の文章は色々と本質的な部分が指摘されていて参考になるのですが、残念ながら紹介されているワークはちょっとわかりづらいです。ワークショップに参加するか、DVDを購入するというのが手のようですが、5000円もするようです。ちょっと高いですね。
実際のレッスンの価格は…やっぱり5000円はするようです。
https://jidai9.wixsite.com/lesson/schedule
コロナ騒ぎがおさまったら受けてみたいと思います。
本書目次
以下、amazonページに載っている目次です。
・第1章 エネルギーは身体のすきまを流れる
・第2章 「立つ」とは浮きつつ垂れること
・第3章 和の身体と西洋の身体、そのエネルギーの流れ
・第5章 肘・膝が、末端と体幹をつなげる
・第6章 パワーとは、相反する力を同時に成立させる張力
・第7章 お腹の力は、足腰に力を入れないため!
・第8章 呼吸とは、〝する〟ものではなく〝通す〟もの!
・第9章 音感覚に身体は支配されている!
・第10章 ゾーンの鍵は、空間支配を生み出す「体性感覚」!
死んだら肥料になるのもありらしい。トニー・ウォルター著『いま 死の意味とは』より
お盆の季節ですね。
この時期はお墓まいりですが、代行で済ませられることも多いようです。https://www.asahi.com/articles/ASN8F72DTN8FUGTB00H.html
散骨の次の葬法
たびたび「散骨」も話題になり、先祖代々のお墓に、いやお墓そのものに入るのももはや自明ではなくなりつつあるのかもしれません。
ちなみに散骨は遺体をまず普通に火葬して、骨になった後にそれを粉末状にしてから撒きます。火葬→骨を砕く(粉骨)→撒くというプロセスになります。
散骨の詳細は以下のリンクに詳しく書いてあります。
自分で散骨する方法と手順|遺骨の粉骨からトラブル回避の基礎知識まで - 散骨@マガジン
散骨だけではなく、さらに新しい形の葬法が生まれているようです。最近読んだ『いま 死の意味とは』にはさらに衝撃的なことが書かれていました。
それは「遺体を肥料にする」というものです。
この『いま 死の意味とは』という本は、イギリスの社会学者であるトニー・ウォルターさんによって書かれた本の翻訳書になります。全体で200p弱で、分量としてはそれほど多くありません。
この本の中では現代の死について、様々なテーマが取り上げられています。医療機関や介護のあり方、良い死とは何か、インターネット(SNS)の発達は死との関わりをどう変化させたのか。事例は海外(ヨーロッパ、アメリカ)のものが中心になっていることもあり、とても刺激を受けました。
この本で挙げられているのが「遺体を肥料にする」というものです。
具体的には、アルカリ加水分解と、凍結乾燥(プロメッション/プライオメーション)の二つになります。
アルカリ加水分解
アルカリ加水分解は次のように紹介されています。
・動物の遺骸を処分するために1990年代に開発された
・ステンレス製の容器に水と水酸化カリウムを満たし、その中で死体の有機物を溶かす
・地域の排水処理方式でリサイクル可能な液体に還元され、農業用肥料に使うことも提案されている。
・アメリカやイギリスで実際に行われている
・アメリカのある州では「人間の遺骸が市の排水溝に排出されている」という懸念から、数年後にはアルカリ加水分解を禁止した。
『いま 死の意味とは』P114~115
要するに「死体を溶かして肥料にも使えるようにしよう」ということです。ちなみに完全に溶かすことはできないらしく、残った小さな骨は遺族に渡されるようです。
ネットの記事にも出ていました。有料記事のようですが、途中までは読むことができます。
遺体をアルカリ溶液に浸してドロドロに、そして…米国で人気急上昇! 死後の第3の選択肢「水葬」とは | クーリエ・ジャポン
個人的に遺体を溶かすことについては「恐ろしい!」という感じがしていたのですが、ここで紹介されているコメントとして「火葬に比べて残酷ではない」というのが紹介されているのが意外でした。土葬文化ならではの感覚なのでしょう。
ちなみにこのネット記事は2017年のものですが、カリフォルニア州がアルカリ加水分解を許可したことについて「15番目」の州だ、と言われています。『いま 死の意味とは』ではどれだけの州かは書かれていませんでしたが、現在では一層広がっているのかもしれませんね。
凍結乾燥(プロメッション/プライオメーション)
さて、では凍結乾燥(プロメッション/プライオメーション)についてです。これについての記述はあっさりしています。「液体窒素を使用して遺体を過冷却して砕けやすくし、振動を加え、一種の堆肥にする」p115ということです。
これについてはしっかり書かれているNewsweekの記事がありました。2020年1月のものです。「プロメッション」で検索するとヒットしました(以下「プロメッション」とだけ記載します)。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2020/01/post-318.php
過程についてもこちらの方が詳しく書いてあります。追記すべきこととしては、「プロメッションでは遺体を過冷却し、砕いて粉末にしたのを自然に還る棺に入れて土の浅い部分に埋葬する」ということでしょうか。また、埋葬後1年ほどで完全に分解されるそうです。
ただ、このプロメッションはまだ実際には行われていないようです。法律に抵触するということらしいのですね。アルカリ加水分解が許されているのなら、プロメッションも全然許可して良いとは思うのですが。
このプロメッションの開発者は上の記事の中で「遺体は、生物学に基づいて、ハイテクノロジーを使って、自然への贈り物にすることができるのです」と語っています。
なるほど。
散骨だと一度火葬にしてしまうため、骨以外の身体を自然に還すということはできません。あくまでも骨だけ。そうしないと単なる死体遺棄になってしまいます。
自然のものを自然に返したいという気持ちは分からなくもない。土葬できるスペースが満足にない日本においては、このようなやり方が、身体を丸々自然に返す唯一の方法なのかもしれません。
おわりに
大学の頃、友人と話していたことを思い出しました。内容は輪廻について。インドの宗教(ヒンドゥー教や仏教)における生まれ変わりの思想ですね。農学部だったこの友人は「まあ物質的には輪廻しているよね」と言っていました。
確かに。と、その時は納得していましたが、火葬はそうした物質的な輪廻を限定的なものにしてしまっているとも言えますね。
丸々人間の肉体を自然に還すというのなら土葬がベストです。ただ、現代においてはスペースや衛生的な問題があります。これを科学で解決するのがアルカリ加水分解やプロメッションだと言えるでしょう。
ただ、土葬で「自然へ還る」ことと、現代科学を使って「自然に還す」というのは似ているようで少し違うようにも思われます。まあ現代で行われている火葬も現代科学の産物なのですけども。
倫理の問題なのか、文化の問題なのか、それとも「慣れ」の問題なのかは分かりません。とりあえず今言えるのは、自分の親が「肥料になりたい」と言ったら「ダメ」と言うだろうということです。