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お別れ会は葬儀の代わりになるか?

お別れ会とは

1年以上前の記事ですが、こんな記事を見つけました。

 

toyokeizai.net

 

この記事の中では「お別れ会」が紹介されていました。

 

お別れ会とは、「普段はなかなか顔を合わせない親戚が集まり、故人の思い出話をする」といった「カウンセリング的な機能」を「葬儀が充分に果たせなくなったことから誕生した」とされています。

 

最初のお別れ会は1994年にホテルオークラ東京が開いた「故人を送る会」だそうです。

 

「『お別れ会』は『故人や家族が何がしたいか』『故人はどんな人だったか』がベースにあり、宗教やしきたりにとらわれず、主催者の希望を優先した形で行われ、最初の相談から会当日まで、数週間〜数カ月間準備に費やす」もので、葬儀のような慌ただしいものではなく、ゆっくり準備を進め、形式にもとらわれないのがその特徴だと言えそうです。

 

友人との死別とお別れ会

私自身、一度お別れ会に参加経験したことがありました。それは大学時代、友人を亡くした時のことです。

 

友人が重い病気にかかっており、余命も長くないと聞かされた時、心臓が一度大きく鳴り、冷や汗のようなものが吹き出ました。友人の病状が悪化し、実際に入院することになってから、一層のショックを受けました。

 

悪い病気、治らない病気だと聞いても、心の内では「なんとかなるはず」

 

そんな思いがやはりありました。けれど、この甘い希望は「入院」という事実によって打ち砕かれます。お見舞いに行き、体調が悪化していく友人を目にし、その死が本当に間近に迫っていることを受け入れざるを得ませんでした。

 

大学生の、夏休みの時だったと思います。ご両親から連絡が入り、友人が帰らぬ人となったということを聞きました。お見舞いの際に連絡先を伝えていたのです。連絡を受け、世の理不尽さにあてられた私はソファに横になり、しばらく天井を見つめていました。

 

葬儀に伺おうと思ったのですが、それはかないませんでした。身内だけで済ませ、後日お別れ会を開催するので出席してほしいという連絡をご両親から受けました。

 

1ヶ月半か、2ヶ月ほど空けてからそのお別れ会は開催されました。繁華街からしばらく歩いて行ったその会場は普通の飲食店も入っている普通のビル。いわゆる葬儀会館などではなく、パーティーにも使われるような場所です。お別れ会というのですから、当然なのかもしれません。

 

スピーチがあり、思い出の音楽や、友人の生涯についての映像が流れ、まさにお別れ会という名前にふさわしい内容でした。

 

その後は友人と飲み屋に行き、ちょっとした後席に。

 

その時は、こういう別れもありなのかもしれない。

そう思っていました。

 

ただ、振り返ってみるとやはり何か足りないものがありました。

 

お別れ会に無かったもの

水面と右手(身体)

お別れ会には「身体」がないのです。遺体がない。

お別れ会を通しても、何か友人の死が漠然としたもので終わっているのです。

 

私は友人の最期を看取った訳ではありません。

最後に見たのは体調がだいぶ悪くなっていた時ではありますが、意識はあった。生きていた。

お別れ会では友人は亡くなり、埋葬も終わっていました。

 

死はご両親からのメールはただの情報です。そしてお別れ会ではその死を確認する、その情報の確からしさは得られました。

 

それでも友人が「もういない」というのは情報でしかなく、実感にはなりえません。そこに「死」という現前とした事実を身体レベルで感じることはできませんでした。

 

大学の恩師が亡くなった時の葬儀も遠くから焼香しただけでしたが、奥には棺がありました。ご遺体を間近で見ることはできなくとも、「もういない」ということを実感することはできたのです。

 

友人との別れは、未だにきちんと済んでいないような、そんな気がしています。

 

仏教式ないし宗教的な葬儀が必ずしも必要だとは思いませんが、遺体がそこにある。親しい人が故人となってもう帰ってこない。それを身体レベルで実感できるような場はやはり必要なのでしょう。

 

 

仏教僧侶という身として

最後に、ここまで書いて考えたことを少しだけ。

友人との死別から約10年。

今私は仏教僧侶という立場で葬儀の場で読経をしています。

棺に向かってお経を唱えています。

 

グリーフケアという言葉が流行り、ご遺族へのケアの重要性が繰り返し語られています。

私はそのケアが十分にできているとは思えません。ご遺族になんて声をかけたら良いんだろう。悩みはつきません。

 

それでも、棺に向かって懸命にお経を唱えるということは、もしかしたら周りにいるご家族や友人、親しい方々に対して「親しいあの人は逝ってしまった。故人となった」という事実を受け入れてもらえる、一つの契機になりうるのかもしれない。

 

そんなことを考えました。

 

 

もちろん自己正当化だと言われるかもしれません。

ご遺族に安らぎを与えられるような言葉をかけられるようでなくてはダメだ、という人もいるでしょう。

 

それでも、まずは今自分にできることをやっていく。

やるべきことをやっていく。

これが結果的にグリーフケアにつながっていくのでは、とも思っています。

 

 

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。

感想・ご意見・ご批判などありましたらどうぞよろしくお願いします。