【禅語】「自灯明 法灯明」は単に「自分を信じる」ことじゃない。
自灯明 法灯明
「自灯明 法灯明」という言葉をご存知でしょうか。禅語として紹介されることもあるのですが、古くはお釈迦様が亡くなる少し前に弟子であり従兄弟のアーナンダに伝えた言葉だとされています。
この言葉の意味は、自分を灯明(導き)として、法(お釈迦様の教え)を灯明(導き)とするということです。暗い道を歩いている時に灯されるのが灯明ですね。暗い道を歩いている中、夜道を照らしてくれるのが自分と法(お釈迦様の教え)だというのです。
法灯明
法灯明はとても分かりやすいですね。お釈迦様の教えを導きとするということです。29歳に出家して王族としての地位を捨て出家者の道に入り、35歳に悟りを開いたお釈迦様は80歳で亡くなるまで約45年間にわたって教えを続けていました。
お釈迦様が亡くなる前に弟子のアーナンダは「これからは何を頼りにすれば良いのでしょうか」とお釈迦様に聞いたところ、「これまで多くの教えを説いてきて、お前はそれを聞いているのだからそれを頼りにしなさい」ということです。
自灯明
さて、問題はもう一つの自灯明です。これは素朴に「自分に自信を持て」ですとか、「自分の考えを大事に」ということが言われています。ただ、このように安直に受け取ってしまうと、とんでもない取り違いを起こしてしまいかねません。
そもそも特定の分野についての基礎的な学習すら不十分な人は、自分の考えを大事にするべきではないですよね。そこの分野をある程度学び、そこを土台として実験をデザインしたり、思考を発展させていくわけです。そうした基礎的なトレーニングを経ていない状態で「自分に自信を持て」など言われても、それは空虚な妄想を抱かせることにしかなりません。
「自灯明 法灯明」の出典
この自灯明法灯明という言葉は、そもそも『遊行経』や『涅槃経』という経典に登場してくる言葉です。これらは漢訳仏典(漢文で書かれた仏教経典)なのですが、一方でパーリ語(古代インドの口語)で書かれたものがあります。
『マハー・パリニッバーナ=スッタンタ』という経典なのですが、これは渡辺照宏さんが『涅槃への道 ブッダの入滅』(ちくま学芸文庫)の中で詳細に検討されています。
ここでは「自灯明」に相当する部分として次のように出てきます。
アーナンダよ、それゆえに、自分自身を燈明とし、自分自身をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない(p85)
自分自身を拠り所にして、他のものには頼らない。他の人の意見に左右されたりしない、ということですよね。なんだ、やっぱり自分の考えを大事にして良いんだ、と思ってしまいますが、これにはちゃんと続きがあります。
アーナンダよ、身について身を観察し、熱心に、意識的に、思慮して、世の欲望と嫌悪とをおさえて行動する。感受について、心について、物事(諸法)についても同様である。このようにすれば、アーナンダよ、自分自身を燈明とし、自分自身をよりどころとし、他のものにたよらないのである(p85)
「身について身を観察する」というのは仏典にも登場してきますが、瞑想のことです。身・感受・心・物事(諸法)とを合わせて四念処(しねんじょ)とも呼びます。
「自灯明」では感覚に振り回されない
つまり、自分自身を灯明として良い存在になるのは条件付きだということです。欲望やら嫌悪やらといったものに振り回されて生きている状態の自分というのは灯明にはなりません。
道元禅師という、鎌倉時代に活躍した禅僧がいるのですが、「感覚の奴隷」という旨の表現をしているのですが、通常の状態での生活はこの感覚(好き・嫌い・無関心など)の奴隷になっている、ということです。
この自灯明という言葉を文脈から切り離して一般化させ、「自分の考えやら感覚を大事にしましょう」というのはこの「感覚の奴隷」であることを推奨することになりかねません。言葉は一緒でも、釈迦様の言葉を伝えようとしていることの正反対のものになってしまいます。
自灯明の前提になっているのは、自分の感覚に振り回されないようになるためのプラクティス(練習・実習・実践)です。これをないがしろにした状態でいくら自分を大事にと言っても、それは自分のエゴを増長させることにしかなりません。
現代のプラクティスは?
ただ、現代の日本仏教の中ではこの四念処の瞑想は積極的には取り入れられてはいません。しかし、禅宗であれば坐禅、浄土系であれば念仏、また宗派に関係のないところでは写経といったものがその役割を担っていると思います。
もちろん坐禅も念仏も積極的に「感覚の奴隷」から離れることを宣伝している訳ではありませんが、実際そのような心が練られてくるものであることは、多くの実践者が感じていることでないでしょうか。
そもそもこの教えが伝えられたアーナンダという弟子は、お釈迦様の側にいつもいて、弟子の中でも最も多くの教えを聞き暗記していた人物です。このような弟子に対してだからこそ「自灯明」という言葉を示されました。
この段階でアーナンダは悟ってはいませんでしたが、長い間お釈迦様の側にいて実践を積み重ねてきた人だからこそ、「自分を頼りにしなさい」と伝えたのです。もしかしたら、アーナンダが自分よりも劣っている他人の話を受け入れてしまうかもしれない、とお釈迦様が危惧したのかもしれませんね。
まずは法灯明
さて、ではみんな瞑想やら坐禅やらをやりましょう、というとあまりにも門戸が狭い言葉のようにも感じます。私はより一層一般化させる言葉としては「法灯明」が良いと思います。
教えを導き手とするということです。もちろん仏教徒であればお釈迦様や各宗派の宗祖の教え、老師ということになるのですが、より一般的には尊敬する先生や先輩の教え、というものにもなっていくかと思います。もちろんテキストベースでも良い部分もあるのですが、できれば現実に出会った人の方が良いと思います。
先ほど言及した道元禅師の言葉に、「正しい師匠に会わなければ、学んでも意味がない」というものがあります。
未成熟な自分の了見でテキストの言葉を解釈したところで、そこには限界があります。実際にその教えがどのように実践されているのか。そこにも目を向けていかなくてはなりません。
尊敬する人、目標とすべき人からの学び、教えを抜きにした自分をよすがにしていては、何の成長も見込めません。いつか自分を灯明とするために、まずは法を求め灯明をとなし、実践していく必要があるのだと思います。