「皆に迷惑」の「皆」って誰だろう。青森のビラ問題から考えた。
青森中傷ビラ問題
青森に帰省した男性への中傷ビラ問題がありましたね。もう結構前のことのように思われますが、被害に遭った男性は、無事に帰省を終えられたのでしょうか。また、ご実家のこれからの地域における関わりは大丈夫なのでしょうか。心配は尽きません。
個人的にはこのビラを配る人の気持ちが分からなくもないのですが(ちなみに東京人でです)、気になったのは「皆に迷惑」という表現です。
皆っていうのはどの程度の人のことを言うのでしょうか。
「皆」と言いながら結局は自分だけのことだったりする、というのも良くあることです。
このような「大きな主語」を使うことについての問題点を考えていきたいと思います。
ネットでの反応は色々。
ネットでも色々な考えがあるようです。
検査時は、感染して無くても、10日後に帰省してるなら、感染して無いとは言え無いよね。
— Bomberman (@Bomberman1031) 2020年8月9日
帰省したい人の気持ちも分かるし、書いた人の気持ちも分かる。
ただ、感染拡大時に帰省したら、大なり小なり言われたり、思われたりするのは当たり前。騒ぎ過ぎ
青森市のビラの件、これだから田舎は〜とかまた言われそう😠
— めい (@mei_sleepy) 2020年8月9日
筆跡出ちゃってるから近所の人は分かっちゃいそうだな、、
ちなみに知事は暖かく迎え入れてくださいって言ってたはずだけど、ビラの主はニュース見てないのかな。
青森に帰省して中傷ビラ貼られた人、定期的に検査受けてたって
— 気弱な鬼畜 ティブロン🦈 (@kumasanyoiko) 2020年8月9日
テレビで言ってたけどそれこそ個人対個人で話してないと分からない事だよね。
テレビで取り上げられて検査受けてたのを知る=貼り紙しなきゃ知りようもない事。
ビラを置いた人間に対して批判的なものもあれば、擁護するようなあものがあったり。また地域社会の独特な体質について問題視するようなものもありました。
ビラの主の気持ちも分からなくもない。
個人的に共感したのは、3番目に引用した「個人個人で話してないと分からない」ということです。どれだけPCR検査を受けようと、普段関わりのない人から見れば、どういった生活を送っているのか、どれだけ気をつけているのか、どういった事情で帰ってきたのかということは分かりません。分かっていることは「東京から来た」ということだけです。
危険だ!
そう思う気持ちも分かります。実際に一番コロナの感染者数(正確には判明した人数)が最も多い県から来るのですから。それは仕方がないことだと思います。
もしかしたら、このビラの主の周り、もしくはご本人がお年寄りだったり、基礎疾患をお持ちの大切な人がいるのかもしれません。万が一のことがあったら大変だ。そう思うことはある意味では自然なことです。
ビラのせいで、片や萎縮し、片やビラ犯人探しの標的にされる。お互いに苦い思いをしてしまうわけですが、帰省された男性が外に出ることに対しての抑止力的な意味合いはあったのかもしれません。
でも、「皆」はヘン。
ただ、この男性自身が「皆に迷惑がかかる」という言葉を使っていることだけは、「仕方がない」とは思えません。
日本人の特徴なのかは分かりませんが、何かを主張する時、正しいことを主張する、もしくは相手の悪い部分を指摘する時に「大きな主語」を使いがちです。
「日本人なら」「常識のある人は」「普通の人だったら」
ここで使われている「皆に迷惑」というのもそうですね。
実際、自分にリスクがあるのなら「自分が高齢なので心配」と書けば良いし、親が心配なのなら「親が糖尿病持ちで、しかも高齢だからどうか出歩かないで」と、しっかり書けば良いのに、と思います。
こうした「皆に迷惑」という言葉を使うと、単なる主義主張にしか聞こえず、何の実利も伴わず、罵声を浴びせられた人と、罵声を浴びせた人が発生するだけです。
「私」を使おう。
もし仮に。
仮にですが、本当に身近な人やご自身のことが心配であるのなら、しっかりそのように明記すべきです。「私」の問題なのだと言うべきです。
これは今回の問題に限らず、日本にはびこっている病理のようにも思われます。この「日本」というのも「大きな主語」で申し訳ないのですが…。
ただ、ついつい「普通そんなことしないでしょ」「常識的に考えてよ」といった、「【私の考え】=【常識・普通・皆の思い】」といった形で伝えてしまうことは少なくありません。
こうした単に断罪するような言葉を使っても相手は動きません。それを見て、断罪する側も一層憤りを強めてしまいます。
そうではなくて、「私はこうしてほしい」と言うことで、相手に対して一人の人間として向き合うことができるようになっていくのではないでしょうか。
断罪から関わりへ。
「皆」「普通の人」「常識のある人」、そういった「大きな主語」を使うことは一方的に責め立てる上ではラクな表現です。使う側もキモチイイ気持ちになるでしょう。ただ、それは何も生み出していないということについても考えなくてはなりません。
「大きな主語」から「私」へ。
断罪から関わりへと、シフトチェンジすることがこの状況をより豊かに生きていくことにつながっていくのではないでしょうか。