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禅と猫〜田中貴子著『猫の古典文学誌』から〜


 猫とお寺って何か良い関係性がありますよね。猫ののんびりとした雰囲気とお寺のゆったりとした流れが調和しているような印象を受けます。しかし、必ずしも猫は禅から歓迎されてきたわけではないんです。

 中国の唐の時代の南泉という禅僧は猫で争う弟子たちの前で、猫を真っ二つにしてしまったという逸話が残っていますし、時代を少し下り宋の時代には如浄という禅僧が猫を飼っている住職たちはけしからんやつらだ、という旨のことを残しています(ちなみに如浄は永平寺の開山である道元禅師のお師匠様です)。

 ちなみに猫を真っ二つにしたという「南泉斬猫」は絵画のモチーフにもなっています。これは長谷川等伯のものです。

引用元:https://blog.goo.ne.jp/takemusu_001/e/e60eec97994766b53b4ac691b9489e2a


 もっともこれらの話は猫が禅僧からも好かれていたことの裏返しだというようにも理解することができますね。南泉の弟子たちが争うほど猫は好かれていた、如浄と同時代の住職たちがかわいがるほど猫は人気があったというようにです。

 もうちょっと猫と禅をポジティブに考えられないかなと思い、猫と禅の関係を少し調べていたら、『猫の古典文学誌』という本に行きつきました。これを読んでみたところ、猫を愛でる禅僧の姿が描かれていたので、少しここに書かれているエピソードを紹介します。

 その前に本の著者について簡単に触れておきます。著者は田中貴子(たなかたかこ)さんという、甲南大学の教授で、専門は中世国文学(鎌倉時代から南北朝時代)、仏教説話だそうです。これは講談社学術文庫から出ている本ですが、2001年に単行本として発刊されていたものを文庫化したものです。

 田中さんは小さい頃から猫を飼い続け、「いつか必ず猫の本を出したい」と思っていたそうで、この本に結実したそうです。猫の伝説や民俗ではなく、「『書かれたものとしての猫』を収集しコメントする」というスタンスで書かれた本書は猫が生き生きとして描かれており、古今変わらず猫を愛でる人々の様子が浮かんできます。


 さて、猫と禅、仏教との関わりは色々なところで言及されているのですが、本書の第五章には「猫を愛した禅僧たち」という章が設けられ、禅に焦点が絞られています。

 ここでは禅僧が猫を珍重している様子が度々描かれているのですが、その実用的な理由というのはネズミよけです。禅は不立文字といって経典の言葉に依存しないということを言っているのですが、当時(現代もですが)の禅僧は多くの書物を所持していました。恐らくは禅籍と呼ばれるものが中心だったのでしょう。

 こうした書物をネズミはかじってしまうのだと言われています。書物は貴重なものなので、それを台無しにしてしまうネズミというのは害悪以外何者でもなかったのです。

 その様子とその対処法が笑ってしまうのですが、次のように紹介されています。

「夜になるとねずみが群をなして私の枕もとにある貴重な本を噛む。それで猫の図をとって壁にかければ、それに恐れてねずみはしゅんとしてしまい駆除することもない」
原文も引用しておきます。
「夜来(きた)る群鼠蜂起して我が床頭の宝書を噛む 戯(たわむれ)に新図を把(とり)て壁に掛ければ蕭然として駆除を待たず」p95-96

 これは義堂周信(ぎどうしゅうしん)という禅僧が著した『空華集』という詩集に残っているもののようです。ちなみに義堂周信は建仁寺南禅寺の住職となった人です。

 猫の絵が本当に効果があるのかについては著者も疑問を呈していますが、それだけ猫のネズミよけ効果が期待されていたということなのでしょう。猫は勉学のための書物を守ってくれる、実利的な存在だと思われていました。

 また、猫好きな禅僧、桃源瑞仙(とうげんんずいせん)という禅僧が紹介されています。桃源瑞仙は室町時代の禅僧で、漢籍に注釈を行ったことで知られ、相国寺という臨済宗の大寺の住職にもなった人です。本書では『百衲襖抄(ひゃくのうおうしょう)』という書物には執筆の状況も書き残されていて、ここから猫好きが分かるというのです。

「執筆は二十三日、真夜中に終わった。弟子の尤沙は眠って傍らにいる。私の二匹の猫もまた眠っている。私も眠ることにしよう。これで私を加えて「四睡」となるのみである」

 四睡というのは禅画でよくモチーフにされるそうです。禅僧三人と虎が寄せ合って眠っている絵だそうですが、ここでは猫二匹と桃源、そして弟子の尤沙で四睡となっています。僧侶二人と猫二匹がみんなで寝ている様子というのは、想像するだけでも微笑ましいものですよね。
 ちなみに四睡図というのはこういうのです。

引用元:https://edo-g.com/blog/2016/02/edo_kaiga.html/shisui_zu_m

 このような微笑ましいものだけでなく、猫との死別を嘆くような記述も紹介されています。

「晩になって病を得た猫は死地に赴いた。私はみずから柴をとって燃やし、猫を暖めた。しかし、少し経って猫は死んでしまった。なんとかわいそうなことだろう」p101

 猫が死んでしまわないように暖めてあげるけれど、結局その甲斐無く旅立ってしまう猫に哀れみの言葉をしたためる桃源の切実な思いが伝わってきます。

 ネズミ駆除という実利で飼うのではなく、単なる愛玩動物として飼うのでもなく、きっと桃源は猫を家族だと思い、一緒に暮らしていたのでしょう。




 禅、仏教では人間と他の動物を隔てないとも言われています。南泉や如浄といったお坊さんが猫を否定したという事実はありながらも、猫を家族のように思い大切に接してきた禅僧も昔からいたということを忘れないようにしていきたいものです。

※如浄は猫について明確に否定していますが、南泉は必ずしも猫がダメと言っているのではないところに注意は必要です。