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「不動」の心とは〜沢庵禅師『不動智神妙録』覚え書き


 沢庵さんの『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』という著作を読みました。これを読むきっかけになったのは次の言葉です。

心こそ心迷わす心なれ、心に心心ゆるすな


 不思議な言葉ですよね。心が心を迷わし、心に対して心が心許してはいけない。ちょっと一瞬頭が痛くなるような表現です。これが載っているとされたのが『不動智神妙録』だったのです。

 しかし、amazonなどで探してみても、なかなかしっかりしたものはありません。角川ソフィア文庫あたりだと専門家が書いてくれたりもしているのですが、この『不動智神妙録』に関する本を書いている人はちょっと畑が違う人のような印象を受けました。禅と剣の関係について書いている本ということもあり、武術系の方が書いている本である場合も多かったようです。

 もちろんそうした本が悪いとも思わないのですが、あくまでも仏教僧侶、禅僧としてこの著作を読みたかったので、敬遠してしまいました。そこで久しぶりに図書館で探してみると、『禅入門』というシリーズの本があり、そこに沢庵さんのものもありました。ちゃんとこの『不動智神妙録』も入っていて、一安心です。原文も訳も載っていて、非常にわかりやすい本だという印象を受けました。手元に欲しいなとお思い、この本を検索してみると、なんと中古で3万円ほども…。ちょっと買うのにはためらわれます。末長く図書館に置いていてほしいですね。

 さて、この『不動智神妙録』という本は柳生宗矩という武士に対して書かれた本です。そのために禅と剣について書かれているのですね。ただ、禅と剣の関連を書くというよりは、剣の極意に例えて禅を説いているようです。沢庵さん自身はおそらく武術には長けていなかったのでしょうが、その極意が禅と通ずることを何かしらの形で知っていたのでしょう。

 件の「心こそ心迷わす心なれ、心に心心ゆるすな」という言葉ですが、ちゃんとこの著作には載っていました。著作の一番最後の最後、締めに使われています。しかし、どうやらこれは沢庵さんの言葉ではないようですね。「歌にもこのようにある」という流れで紹介されていて、この歌が誰によって詠まれたのかということは分かりませんでした。
 ※この歌についてはまた日を改めて考えてみたいと思います。
 
 
 この歌以外にも『不動智神妙録』は禅のとても大事なことをこの上なく平易に語ってくれており、読むたびにうなづいてしまうぐらい、感銘を受けました。

 ここでは著作の題名にもある「不動」について言及しているところを紹介したいと思います。


不動明王といっても、実は一心の動かぬところをさしたもの、身がぐらつかないことです。ぐらつかないとは、心が物事に止まらぬことです。物を一目見て、それに心を止めないことを、不動と申します。
なぜかなら、物に心が止まると、いろいろの分別心が胸にわき、いろいろ胸のうちに動くのです。心が止まれば、止まる心は、動いているようで、自由自在に動かぬのです
(p58-59)


 ここにはとても多くのことが語られています。不動というのは、単純に読めば「動かない」ことが特徴だと思われますが、少し違うようです。確かに「一心の動かぬ」ところとは言われていますが、直後に「ぐらつかないとは、心が物事に止まらぬこと」だと言われています。「不動」であれば、むしろ一点集中のようなものをイメージするのではないでしょうか。お仏像でも、標識でも、美人でも良いですが、見たらそこから注意を離さない。音が聞こえようが、視界に何か飛び込んでこようが、それに意識を持っていかれない。それが不動なのではないか、というのが普通の考えかと思います。

 しかし、ここで沢庵さんは逆に「心を止めないことを、不動と申します」としています。一心が動かないことが不動だと言っておきながら、直後に「心を止めないこと」が不動というのは何か矛盾しているようにも思われます。あれやこれや考えていくということも不動ということになってしまいかねません。しかし、あれやこれや考えている状態は「いろいろの分別心が胸にわき、いろいろ胸のうちに動く」ことであり、これは否定されています。

 どうやら「心を一点に止める訳でもなく、あれやこれや考え事をするのでもない」というのが「不動」の意味するところのようです。精神分析の祖であるジークムント・フロイトが「全体に漂う注意」という言葉を使っていたようですが、これに近いのではないでしょうか。一点に集中するのではなく、広く全体に注意が向けられている。それでいて妄想やら思考に執われることがない。そうした状態のことを言っているのだと思います。


 坐禅をしていると、「物に心が止まる」というのを何回も経験します。僕は曹洞宗で、基本的に壁側を向いて坐るのですが、木目が気になったり、お寺の坐禅会によっては襖側に坐ることもあるのですが、そこの模様に心が執われることもあります。

 物理的な物以外に心が止まることもあります。例えば音です。これは大きい音よりも、些細な音の方が気になってしまいます。車や飛行機の音よりは近くの人がちょっともぞもぞ動いた時の衣擦れの音なんか、一度気になると止まりません。

 何かに気が止まってしまうと、そこからはあれやこれやと妄想が始まります。目に映る物については意識的にしろ無意識的にしろ違う形のものが浮かんできます。木目が何かのキャラクターに見えてくることもありました。

 衣擦れの音の場合はもっと厄介です。人が発している音だと、「ああ、この人は坐禅に集中していないんだな」といったジャッジを始めてしまうのです。そうしたジャッジをしている自分が一番坐禅から離れていることにも気付かずに。

 あれやこれや考えたり、妄想を繰り広げているのは、心が飛び交っている、自由に動き回っているとも表現できるかもしれませんが、沢庵さんはここで「心が止まれば、止まる心は、動いているようで、自由自在に動かぬ」としています。

 一度入ってきた情報を元にあれやこれや考え事をすることは、つまり新しい情報に目を向けなくなってしまうということです。これはもちろん目以外の五感全てに当てはまります。世界から情報を受け取ることを拒み、自分の内側で思いをこねくり回しているような状態は、いわば心が凝り固まっている状態だと言えるでしょう。

 こうした状態は心が自由であるとは言えません。心が自分の内側という一箇所に止まってしまっているのですから。

 沢庵さんの「不動」の心持ちで常にいるのが理想なのでしょうが、なかなかそれは難しいです。坐禅の中ですら困難な時もあります(むしろその時の方が多いです)。それでも日々の実践をめげずに続け、心を止めず、心を遊ばせないあり方というのを実感していきたいものです。