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【読書感想・書評】『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』


 今回は『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』という本の感想を書こうと思います。この本を買ったきっかけは、著者の柳田由紀子さんと藤田一照さんの対談がオンラインで行われていたことです。僕はその対談に参加できなかったのですが、友人が何人か参加していました。うらやましいなと思っていたところ、「対談は本を読めばだいたいカバーできる内容だった」ということを聞き、すぐにamazonでポチりました。

 この本はスティーブ・ジョブズアメリカで禅に励んでいた時、マスターとして慕っていた乙川弘文(おとがわこうぶん)について書かれた本です。体裁として最初に予想していたのは伝記的なものでした。幼少期をどんな風に過ごしたのか、一大転機は何だったのか、達成の苦難と成功の鍵のような、よくあるやつです。しかし、この本はそういった形では書かれておらず、延々とインタビューが載っています。もちろん乙川弘文もスティーブ・ジョブズも亡くなっているので、インタビューの相手は二人の周辺にいた人々です。

 乙川弘文が日本で関りのあった家族や修行仲間、アメリカでできた弟子、家族であった人など、実に多くのインタビューが綴られています。読み物として独創的(僕があまり読まないタイプというだけかもしれません)で、誰かが「分からない」と語ったことを他の人が証言したり、また食い違っていたりなど、なんだかミステリー物のように読み進めることができました。

 ただ、このような体裁のせいで、乙川弘文の全体像を知るには少し苦労しました。弘文についての情報が本全体に散逸しているような形になっているので、「あれが書いてあったのはどこだっけ」となっても、なかなかその情報にたどりつけません。ちゃんと付箋なり傍線を引くなりしなくてはまた一からスキミングしていく羽目になります。

 全体として弘文についてまとめると、「真面目で賢く、教養もある一方で、悩みもまた深かった僧侶」と言えます。弘文は駒澤大学の仏教学部を卒業した後、京都大学の大学院に進んでいます。そこでは仏教哲学(論理学)を研究していたようです。京都大学で師事していたのは長尾雅人先生という、『摂大乗論』という唯識の論書に関する研究などで知られる仏教学の大家です。この先生から大学院の博士過程に進むのを提案されていたというのですから、その学問に対する真摯な姿勢が見て取れます(インタビューに登場する仏教学の教授は弘文の修士論文を「及第点」としながらもどちらかというと否定的なようでしたが)。

 結局博士課程に進まなかった弘文は、修士を終えると福井にある曹洞宗大本山永平寺に修行に行きます。弘文はお経もとても上手だったらしく、宮崎奕保禅師(当時は修行僧の指導役)からも後の永平寺を担っていく存在として一目置かれていたようです。また他にも書が達筆であり、お茶の素養もありました。

 そんな弘文に一大転機が訪れたのが、アメリカ行きです。アメリカのカリフォルニアにあるタサハラという場所があるのですが、ここはアメリカで曹洞禅が熱心に行われている場所です。僕のイメージではとてもストイックな場所、というイメージがあったのですが、ここで弘文は女性関係に悩むようなことがあったようです。
 
 そこでの体験が初体験だったのか、その相手は誰だったのかということもインタビューの中で何回か(何回も!)話題に上がっていたのですが、そんなことまで掘りかえさなくて良いじゃないかと、少し悲しくなりました。スティーブ・ジョブズというネームバリューのせいで死後に性的な遍歴が出版という形で万人に知らされることになってしまうというのは、何か空恐ろしいものに思わされます。

 弘文は多くの弟子に恵まれましたが、それは文字通りの「恵み」にはならなかったようです。弘文は昼夜問わず弟子(日本的な意味での弟子というよりは、生徒ぐらいのものなのでしょう)の訪問を受け付けていたのですが、むしろそれが弟子の弘文に対する依存を深めてしまったようです。その辛さから逃れるためだったのかはわかりませんが、徐々にアルコール依存症も強まってしまいました。もちろん弟子の前では飲まなかったようですが、本音と建前のところが立ち行かなくなっていってしまったのかもしれません。最後はヨーロッパの友人の別荘で溺死するという唐突な死を迎えています。

 真面目で賢く、教養もある一方で、深い悩みとともにあった禅僧、乙川弘文。その人生はどこまでもある種の「解放」を求め続けたのかもしれません。日本から解放され、上下関係からも、寺という枠組みからも解放されていった弘文。際立った弟子を残さなかったのも、その解放の一つの表れなのでしょうか。

 外的な束縛の解放を続けた弘文。これほどの人物であれば、日本にあっても精神的に解放されて生きていくことができたのではないか、という思いが拭えません。アメリカという自由な風土の中における解放は、本当の解放ではないのではないか、とも考えてしまいます。なかなか消化しきれない弘文の生き様ですが、もうしばらくこの消化不良の状態でいようと思います。