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先祖供養をするワケとは。『仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるの?』から

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 今日からお盆(旧盆)です。

お墓参りをする方も多いかと思いますが、そもそも先祖供養というのはなんでしょうか。『仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるの?』という本を読んだので、内容をかいつまんでお伝えしながら考えていきたいと思います。

 

 

本と著者紹介

この著者は藤本晃さんという方です。広島大学で文学博士を取得され、山口県の誓教寺のご住職をされています。誓教寺は本書が書かれた時には「浄土真宗本願寺派」だったようですが、現在は浄土真宗の単立寺院となっています。

 

単立とは特定宗派に属していないということですが、誓教寺は「浄土真宗」という大枠には入っているようですね。

 

藤本さんは初期仏教という、お釈迦さんがまだ生きていらした頃の時代を中心とした仏教に深く傾倒されていて、それが原因で単立になったのでしょう。

 

 

本書はあとがきを含めて188p、難しい経典の引用も無くて非常に読みやすいものになっています。「元ネタ」は藤本さんご自身の博士論文と、またその後に発表された論文2本だそうです。

 

本書の中心になっている経典は『増支部(ぞうしぶ)』「ジャーヌッソーニ章」というものです。『増支部』経典というのは上座部という東南アジアに伝わった仏教で重んじられている経典です。

 

パーリ語というインドの昔の言葉(サンスクリットよりもくだけた口語体)で書かれたものの一つになっています。

 

ちなみにジャーヌッソーニというのはバラモンの名前のようです。

ジャーヌッソーニ。

イタリア人にいそうな名前ですね。

 

このバラモンが先祖供養が本当に意味があるのか、ということをお釈迦様に聞き、その答えをもらっているのがこの『増支部』「ジャーヌッソーニ章」になります。

 

供養は生きている内に

冒頭でなかなか衝撃的なことが言われます。それは「亡くなってからの供養は遅い」というものです。

 

 

お釈迦さまはまず、「親や親や親族が『亡くなってから供養する』のでは遅すぎる」とおっしゃいます。親が生きているうちから、自分を産み育ててくれた両親を尊敬し孝養をつくすことが、ほんとうの「供養」だとおっしゃるのです。いわゆるふつうの「親孝行」が、先祖供養の原点なのです。(p30)

 

おっしゃる通りですよね…。ただ、失ってからようやくその大切さに気づくのが人間の悲しい性です。

手遅れになってから、ようやく「あれをしておけば良かった、これをしておけば良かった」と思うようになります。

 

生きているうちに何かしてやろうと思っても、顔を合わせれば小言の言い合いになるということがよくあるのではないでしょうか。

 

生きている内に感謝を示すことというのは、本当に難しいことですよね。そうした人のために供養というのはあるのでしょう。

 

廻向しよう

ただ、供養というのはダイレクトに亡き人に届くものではないのですね。そこで必要になってくるのが「廻向(えこう)」というものです。これは「回向」とも書きます。

 

周りのお寺関係を見ていると「回向」を使っている人の方が多いようですが、ここでは本書にならって「廻向」でいこうと思います。

 

「廻向」というのは「めぐらし向ける」ということなのですが、何を「めぐらし向ける」のかというと、「功徳(くどく)」です。功徳を廻向するのを「追善供養」とも言います。

 

「追善」供養の仕方はかんたんです。なにか善行為をして、「これは両親の代理でわたしがしました。この善行為の功徳が両親にありますように」などと、心で願ったり、ことばで表現したりして「功徳廻向」すればよいのです(p36)

 

 

このように、もう自力では功徳を積むことができなくなった両親に対し、自分で善い行い(善行為)をして、それを両親の代わりですよといって功徳をめぐらし向けていく。これが廻向のシステムになっています。

 

具体的に功徳として説明されているのは「布施(ふせ)」です。

 

現代の日本で布施というと、お寺や坊さんに渡す葬儀料・供養料というような印象があるかもしれません。しかし、東南アジアの国々では、お坊さんに食事を施すことが布施だと考えられており、ここで言われているのもそうした意味での布施です。

 

布施についてはネットにも色々と情報が出ています。

Wikiのリンクを載せておきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD

 

 

この布施をめぐらし向けていく、つまり廻向していくわけですが、自分の功徳が無くなるわけではありません。

 

 善行為自体が一つの善行為で、その功徳を廻向することは別の善行為ですから、廻向すると、善行為を二回したことになり、自分の善行為の功徳が、減るどころか逆にますます増えるのです(p38)

 

つまり、最初に行う布施=善行為として+1、さらに廻向=善行為として+1され、自分には結局+2になりますよ、というのがこの廻向の発想なわけですね。もちろん廻向を向けられる相手も+1されることになります。

 

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こんな感じ。

 

なんだか「紹介してくれたらポイントサービス」みたいな感じがしないでもないですね…。

 

 

ここまでは非常に納得のいくところでしたが、ここからがちょっと「えっ」なるような内容でした。

 

 だが、餓鬼限定。

 

「天人には天人の食べ物が、人間には人間の食べ物が、畜生には畜生の食べ物が、地獄には地獄の食べ物があり、その食べ物によって、それぞれの生命はそれぞれの境遇で生存しています。そこに生きる者たちには、布施の功徳はためになりません」(p40)

 

「餓鬼道に住む者には、布施の功徳はためになります。この餓鬼道が、布施の功徳が役に立つ適切な境遇です」(p40)

 

 

なんと。

 

 

功徳をめぐらせることはできるのだけれど、その相手は餓鬼限定だというのです。餓鬼というのはこんなやつです。

 

 

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出典 餓鬼草紙 写 国立国会図書館近代デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542610


 

食べ物をもらっても、それを食べようとすると燃えてなくなってしまうというのがこの餓鬼の特徴です。

 

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 図にするとこんな感じに。この頃は六道輪廻ではなくて五道輪廻だから修羅は無いです。

 

…いやいや、うちのご先祖様がそんなところに生まれ変わっているわけないじゃないか、と思いますよね。

しかし、お釈迦様なお答えはこんな様子でした。

 

 

バラモンよ、餓鬼道に(過去世も含めた)親族がだれ一人もいないままということはありえません」p47

 

「君の先祖、誰かしら餓鬼になってるよ」ということですよね。

なんとも承服しがたい感じがします。

 

 

自分のために先祖供養。

それでも万が一、餓鬼に誰も落ちていないケースもあるようですが、その時は誰も受け取ってもらえません。ただ、自分の善行為にはカウントされるのだといいます。

 

 

結局、供養・廻向というのは自分のためという話になってきてしまいますね。

 

 

バラモンであるジャーヌッソーニさんは「わかりました、お釈迦さま。わたしたちは従来どおり、布施をして先祖供養をおこなうべきです。施主自身が、その供養によって果報を得られるからです」p52

と、だいぶ物分かりが良い返事をして終わっていますが、どうなのでしょうか。

 

結論として、仏教的に「先祖供養は行うべきである」ということになりますが、それは次の理由からになります。

・餓鬼道に落ちた先祖に廻向して救うことができる。自分も功徳を積むことができる。

・万が一先祖が誰も餓鬼道に落ちていなくとも、布施の功徳を得られる。

 

 

おわりに

なるほど!

とはちょっとなりづらいですよね。日本の死生観とインドの死生観にずれがありますし。

お盆を仏教の教えの中だけで理解しようというのは小さな見方で、日本の土着の死生観を加味していく必要があるようです。

死後の姿を成仏と考えたり、それでいてお盆には死者が帰ってくるということなど。

 

むしろ土着の死生観を受け継いでいるからこそお盆という行事や仏教寺院が生き残っているとも考えられますね。

 

だいぶ長く書いてしまったので、納得できなかったところは今後また改めて書いていきたいと思います。

 

ここまでお読みいただいてありがとうございました。

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