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【仏教における欲】宮崎奕保禅師と和田有玄大僧正


こんにちは。この前は七夕がありましたね。7月7日だけだと思っていたのですが、一部地域では8月に行われるところもあるようです。七夕といえば願いを短冊に書いて吊るしますが、仏教的に願いを書くってどういうことなのかと考えていくと、結局「欲だからいけないのでは?」とも考えてしまいます。そこで仏教における欲をどう考えていけば良いのか、ということについて書いてみたいと思います。

さて、仏教における欲というのは苦しみの根源であると言われています。いわゆる煩悩というやつです。三毒とも言われていて、代表的な煩悩は貪(とん)瞋(じん)痴(ち)です。貪とはそのまま貪りですね。好ましいものを「もっともっと」と求め続けていくことです。二つ目の瞋とは怒りです。瞋恚(しんに)とも言われます。これは単なる怒りではなくて、好ましくないものを拒絶していくことと、広く捉えることができます。

最後の痴は愚かさのことです。色々な解釈がなされているのですが、仏教的な道理、つまり無常や無我について知らないということだったり、または貪や瞋に飲まれている自分に対して無自覚であることなどが言われています。

これらの貪瞋痴という煩悩が働くことによってネガティブな行動が引き起こされ、結果的に苦しみを受けていくというのが私たちの基本的な態度になっているというのが仏教的なスタンスなのです。

ただ、こうした考えを突き進めていくと、「良い人間になりたい」「仏教を学びたい」「誰かの役に立ちたい」「坐禅したい」というような思いというのも全て煩悩に回収されてしまう、つまり欲なのではないかと考えてしまいます。何か良いことをしても、しようとしても「それは執われだ」ということになってしまうと、もはや何も「良いこと」などできませんし、ぼーっとして何もしないのが仏教的な「良いこと」になってしまいます。

人のために何かをするというのは仏教で言えば布施(ふせ)です。布施と言えば「お坊さんにお葬式や法事の時に渡すお金のこと」のように思われますが、私心なく相手のためにすることは全て布施と言われるものです。お金を施すことも、仏教の教えを説くことも、またちょっとした肉体労働による奉仕もまた布施になり得ます。この布施について、永平寺の78代目の住職の宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師は「布施も、良くの一つやろうね」と語っておられます(『坐禅をすれば善き人となる』p222)。

宮崎禅師と対談をされた高野山金剛峯寺の四百十世座主の和田有玄大僧正は次のように語られたそうです。

「宮崎禅師さまがいま「欲」ということをおっしゃいましたが、密教ではこの「欲望」の有り様を非常に重要視します。一般的に欲望と言うと「小欲」即ち悪いことに対する一種の願望、執着のようなものを連想なさる方のほうが多いのですが、欲望にもよい目的に向けられたものも多く、この欲望を「大欲(たいよく)」といっております。この現実社会は欲望なしでは進歩向上いたしませんし、われわれ自身に置き換えてみても欲望なしの社会生活や家庭生活などはどこにも存在しないですね」(『坐禅をすれば善き人となる』p220)

誰かのために何かをするというのも、自分のために何かをするのも一つの欲です。ただ、自分のために何かをするというのは小欲といい、他人のためにすることは大欲だと言われています。社会事業や福祉事業も確かに人の思いにより進められてきた、進歩してきたものとして考える時は欲の実現にはなっているのですが、それは自分のためのものではなく、他の誰かのためになるようにという大欲によって実現されてきたもの。この欲は決して否定されるものではなく、むしろ推奨されているのです。

私は仏教を学び、無我、無欲といった言葉に触れる中で、自分の意志はノイズのようなものだと感じていました。そして、何か努力をすることも仏教に反してしまうのではないかと考えてしまい、努力することも仏教に反しているのではないかと考えるようになってしまっていました。

しかし、欲望というのは全てが否定されるものではない、ということなのですね。自分のことばかり考える小欲ではもちろんいけませんが、それが他の人に対しても良い行いとなっていくような、大欲は推奨されているということなのです。

また、唯識という仏教教学の中においては欲は「勤の依(ごんのえ)」とも言われています。勤とは精進のことです。つまり、欲というのは精進(仏道修行)をする拠り所でもあるということなのです。これはもちろん小欲ではなく、大欲でしょう。

貪りや怒りといった自分にとっても周りの人にとっても毒になるような欲は確かに否定されるものです。ただ、自分以外の人も幸せにしていきたい、役立っていきたいと考えていくような欲、大欲であれば仏教では奨励されていると言えます。

仏道修行を行っていくということは、正しい方向に欲深くあるということが必要なのかもしれませんね。