ぷらっと禅

禅したり、しなかったり。

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情報に振り回される日々の中で


修行中はテレビはもちろん、新聞もほぼ読むことはできなかったが、今は逆だ。ブログサイト、SNS、テレビ、YouTubeと、情報に溢れた状態にいる。自分から情報を得ようとしなくても、家族の誰かがテレビをつければ、ニュースキャスターのしゃべる情報が嫌でも入ってくる

政府のやり方に不満を感じ、批判が頭の中を飛び交う。的外れなコメンテーターに対して憤りを感じ、またもや批判が飛び交う。

そもそも専門性が担保されていないのにどうしていっちょまえの顔をして発言をしているのかという疑問も湧く。
テレビのあり方への批判、それを良しとしている一般視聴者への批判も頭の中を飛び交い始める。

情報に飲まれるとは、単純に情報量に圧倒されることだけではないようだ。
何かの情報をきっかけにあれやこれやと考え、判断し、怒りや罵倒が鳴り響く。
情報で疲れてしまうのは、自分自身がその情報を元にして、あれやこれやとこねくり回すからなのだろう。


情報を元に色々と批判をしたとしても、その情報が明日も正しいという保証はない。
今日の情報を元にあれやこれや考えたとしても、次の日にはまた別の情報が流れてくる。
情報とのいたちごっこ

しかも、この状況では新しい情報が本当に正しいのも怪しいものがある。結局前の方が正しかった、ということもいくらでもありうる。


それでも、ニュースを観ることや、新聞を読むことは良いという固定観念は根強い。日々新しい情報にアップデートしていくことが、義務感のようにも感じられる。

しかし、新聞すら否定していた人もいた。
ドイツの文学者であるヘルマン・ヘッセの言葉だったと思う。

細かい表現は覚えていないが、新聞を読むのをやめたことで、その時間を良い詩を読む時間に当てることができるようになった、ということを書いていた。どの本に書かれていたのかも、記憶が薄らいでしまったが。

情報を取り入れることにあくせくしていると、心が渇いていってしまう。
刺激ばかり求めると、精神が枯れていってしまう。

時には世情から離れたところで、ゆっくりと文学や思想に触れる時間を作りたい。
そうすることが、心に潤いを与えることになっていくのではないか。


情報の暴流の上にいれば流される。
深く潜ることができていれば、流れもまた一つの景色に。