幸せの鍵は「死を想う」ことかもしれない。
死を想ってパフォーマンス向上
死ぬ気でやれ!
という精神論はもはや廃れつつありますが、「死を想う」ことがパフォーマンスを上げるという研究結果が出たようです。
バスケットボールの試合前に、「いずれは誰もが死を迎えること」をほのめかされた選手は、そうでない選手よりもシュートの成功率が高く、より多くの得点を稼いだ
具体的にとった手法はというと、2回試合が行われ、1回目の試合の後に選手の半分は試合の感想についてのアンケートに答え、もう半分の選手は自分の死についてのアンケートに答えたそうです(もう一つの実験もあるのですが、そちらは記事を読んでみてください)。
死について考えるだけでパフォーマンスが上がるというのはすごいですよね!
もっとも、この記事の最後で「死を考えさせるテクニック (?)」が一層研究されるというのはちょっとやりすぎではないかな…と思わざるを得ませんでしたが。
研究者たちは、スポーツのコーチのなかにはこのような方法で選手のやる気を喚起している者がすでにいるかもしれないと語り、さらなる研究によって、人々が抱く「死に対する恐怖」を活用する新たな方法が開拓されるかもしれないと示唆している。そして、そうした手法はスポーツに限らず、仕事などにも応用できる可能性があるとも述べている
「死に対する恐怖を活用する」というのは、下手をしたら人権問題などにも発展しかねないものです。 健全な手法においてなされるのなら良いですが、戦時中の国のようになってはならないでしょう。
死を想うことは恐怖だけを高めるか
死を考えることによって死に対する恐怖が増す。それがパフォーマンス向上の理由であると言われています。死を考えることによって恐怖に対処する必要性が高まるということは今までの研究でも分かっていることのようですね。
ただ、自分の死について考えることが単に恐怖につながるということに関しては疑問が残ります。
確かに、自分が死ぬことに全く恐怖を感じないといったら嘘になります。
死の先がずーっと虚無の世界になるのか、感じる私すら消えるのか、死後世界で罰が待っているのかなど、妄想し始めると止まらなくなる経験は多くの人が経験していることです。
しかし、死について考えることは、自分の人生がいつか終わってしまうということだけではなくて、今のこの瞬間の貴重さというものに対するフォーカスにもつながるのだと思います。
何気なく行っている日々のトレーニング、親しい人との会話、自分の仕事や勉強への取り組みは、それがずっと続いていくような感じを持ってしまいますよね。
今日はちょっと手を抜いても良いかな
これぐらいにして、あとは明日か明後日らへんに片付ければいいや
そんな風に今日をないがしろにしてしまいます。
もし、自分が遠くない未来、もしかしたら来週、いや数日後、明日に自分の命が消えてしまうとしたらどうなるでしょうか。
この一瞬一瞬が今までに無いぐらい大事なものに思えてくるはずです。
こうした一瞬一瞬にフォーカスしていくことを、一回性と呼ぶのでしょう。
気にしなければなんとなく過ごしてしまう、なんとなくこなしてしまうようなことに対し、緊張感と高い集中をもって臨んでいくこと。これが一回性です。
「 死を想う」ことと禅
死を想って生きるということは、禅の世界でも繰り返し説かれていることです。
それは「無常」という言葉によっても表されていますし、また「頭燃(ずねん)を救う」という表現もされます。
無常というのは日本人であれば馴染み深い言葉でしょう。
『平家物語』の冒頭には「諸行無常の響きあり」という一節が登場してきます。
物事は常に移り変わる。
栄華を極めた人もいずれは没落し、どんなに肉体美を誇ろうとも、その人もやがては死を迎えます。
「頭燃を救う」という言葉は、あまり聞き覚えがない言葉かもしれません。
頭燃というのは文字通り、頭に燃えさかる火のことです。
物事の期限が迫って追いまくられることを「尻に火がつく」という表現をするのですが、ここでは「頭に火がつく」状態になります。
・・・尻よりも頭に火がつく方が恐ろしい感じがしますね。
これらの言葉には「ぼーっとしていたらすぐに死を迎えてしまうほど、時間が過ぎ去るのは早いのだ」という戒めの意味が込められています。
ぼーっとしていたらすぐに死んでしまう。
もっとも、ぼーっとしていようがぼーっとしていなかろうが、いずれ人間は死んでしまいます。養老孟司先生の言葉で言えば、「人間の死亡率は100%」なのですから。
ただ、この死が刻々と迫ってきているという感覚は、今の自分を奮い立たせてくれるものになります。
今の自分が呆けていて良いのか。
無駄なことをしていないか。
どんなに頑張っても死を避けることはもちろんできません。
それでも、命は限りあるものであるという自覚が、命を精一杯生きていこうという意思につながっていくのです。
「死を想う 」ことと人間関係
「死を想う」のはこれは自分自身との向き合い方だけではなく、他者との向き合い方にも関わってきます。
小川洋子さんは河合隼雄さんとの対談本『生きるとは、自分の物語をつくること』の中で次のように語っています。
「あなたも死ぬ、私も死ぬ、ということを日々共有していられれば、お互いが尊重しあえる」
些細なことで互いを責め立て、どちらが正しい、正しくないという言い争いをついしてしまいます。互いに死ぬ存在である。それを想うだけで、ほんの少しで相手に優しくなれます。
多くの場合は、大切な人を失ってから、ようやくその価値に気づくことができます。いや、失わなければその価値に気づくことができないと言った方が正確かもしれません。
「死を想う」ことで、失った時の感情そのものを得ることはたしかに難しいかもしれませんが、それでも限りなく実体験に近い形で想像していくことはできます。
それを繰り返していくことで、反射的な、感情的な反応ではなく、穏やかで、建設的な関係を築いていくことができるのではないでしょうか。
「死を想う」ことはその響きとは逆に、私を丁寧に生き、周りとの関係も豊かにしてくれる処方箋なのかもしれません。