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【坊主の読書感想・書評】『村上ラヂオ』〜変わるために、変わらない〜


読書感想『村上ラヂオ』





本の簡単な紹介


新潮文庫の『村上ラヂオ』。これは女性週刊誌のananに掲載されていたエッセイを本の形にまとめたものらしい。


3ページ程度の、身近いエッセイが延々と続いていく。どこから読み始めても良いし、どこで読み終えても良い。エッセイ同士にさほど明確な繋がりがあるわけでもない。

タイトルとしてあるのは、「おせっかいな飛行機」「コロッケとの蜜月」「猫の自殺」などだ。猫については「猫山さんはどこに行くのか?」というものもあるので、エッセイ同士の関連がゼロだと言ってしまうと嘘になる。

エッセイ自体は3ページで終わるのだが、間に挿絵が1ページ分入ってくるので、2回ページを繰るごとに新しいエッセイに移っていく。挿絵を描いているのは村上春樹ではなく、大橋歩という人だ。


この大橋さんのプロフィールを見てみると、「平凡パンチ」の表紙でデビューしているよう。この本の中には「平凡パンチ」についてのエッセイも入っていた。

明確な繋がりはない。けれどどこかで繋がっているような感じのする、不思議な本だ。


ちなみに本に載っている絵は、どうやら版画らしい。版画が挿絵になるっていうのはとても珍しいことだと思うのだけど、どうなのだろう。

いや、一昔前の活版印刷だったらむしろ文字も絵も全部版画みたいなものだったと言えるのかもしれない。




惹かれたところ


「スーツの話」というところに出てくる一節が刺さった。

何かがあって、「さあ、今日から変わろう!」と強く決意したところで、その何かがなくなってしまえば、おおかたの人間はおおかたの場合、まるで形状記憶合金みたいに、あるいは亀があとずさりして巣穴に潜り込むみたいに、ずるずるともとのかたちに戻ってしまう。決心なんて所詮、人生のエネルギーの無駄遣いでしかない(p11)


耳が痛い一節だ。
「文字面を読むときは目が痛いのでは」とも思うが、とりあえず耳が痛い。

人間、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という表現があるように、何かがあっても忘れてしまう。それが大きいことであれば多少は記憶に残っているかもしれないが、ちょっとした失敗だったら一瞬で飲み込み、その熱さも一瞬で消え去る。

しかしそれとは逆に「別に変わらなくてもいいや」と思っていると、不思議に人は変わっていくものだ。変な話だけどね( p12)


そういうものなのだろうか。
そういえば、以前読んだ本で「何かの失敗に対して自分を許すことができれば、次の結果が良くなることがある」というような内容があった。

失敗をしてしまった自分を許すということは、その失敗をそのまま受け入れるということだ。
逆に、失敗をしてしまった自分を許せないというのは、むしろその時の自分を否定することになる。


「変わろう!」

そう思った時の自分は、何か輝かしい「理想の自分」を描いて(実際にノートやらevernoteやらに目標とか「毎日これをやるリスト」みたいなのを作ったり)、それで満足する。

そうして満足してしまう。
今の自分がどうであるのかを置いてけぼりにして、どこかにある(本当はどこにもない)あるべき自分を捏造してしまう。

捏造した自分は自分の失敗を覆い隠す。
そして、同じ失敗を繰り返す。


…また自分を捏造する。

そうやって、捏造に捏造を重ねた人生を送ることになる。


「変わろう」という気持ちは、それはそれで立派なのだけれど、本当に変わることができなければ、虚偽にしかならない。


「変わらなくてもいいや」という開き直りは、自分を捏造するのをやめる、という点でとても健全だと思う。自分の思う自分と、実際の自分が寄り添っていけている感じがする。

頭の中の自分と、現実の自分がピタリと合っている時に、本当の変化というのが起きてくるのかもしれない。




坊さん的に


道元禅師は「発心百千万発」という言葉を使っておられる。先ほどの村上春樹の言葉で言えば「変わろう!」という思いを何回も何回も起こすということだ(時には「続けよう!」にもなるかもしれない)。

「人間喉元過ぎれば熱さ忘れる」という、先ほども出したことわざがあるけれど、「発心百千万発」は喉元過ぎたものをもう一度取り出し、何度もなんども飲み込むことだと言っても面白いのではないか。

そうは言っても、実際に何度も思いを起こすというのは難しい。

私が個人的にしているのは、ノートをつけることだ。毎朝その日にやるべきこと(坐禅、書、仏典参究)を書き出し、できていたらチェックをつけていく。できればその日、または数日後に振り返り、これができている、できていないというのを見つける。

そして、また思いを新たにしていく。


これが「発心百千万発」に当たるのかは分からないが、少なくとも自分と向き合うことをやめずに、自分を少しずつ変えて行く努力ができているように思う。


最後に



もっとも、万人にとってこれが正しいとは限らない。
『村上ラヂオ』の最後の方には、こんな言葉もあった。

ある人にとって正しいことが、別の人にとって正しくないこともあるし、あるときに正しいことが、別のときには正しくないことだってあるわけだから(p213)


今やっていることが、これからも正しいとは限らない。
ノートにあれやこれや書きつけるのが億劫になって、「変わらなくてもいいや」と思う時が来るのかもしれない。

でも、今はその時じゃない。今は今の習慣を続けていたい。

それこそ「変わらなくていいや」である。